少し前に見た「ゼロ・グラビティー」について、
ルナさんのところにコメントを書いたので、ついでにもう少し、邦題に付けられた「ゼロ」がいかに無意味なものかについて考えてみる。
確かに、物語のほとんどはいわゆる「無重力状態」の中でのサバイバル劇ではある。
だが、サンドラ・ブロック演じるライアンは、実際には地球の重力の頸城から解き放たれた場所に居るわけではない。
地球の周回軌道にある物体は、実は、地球に向かって落ち続けている。何故、地球に落ちてしまわないかと言えば、地球からの脱出速度に達しない、だが落ちてしまわないだけの周回速度を維持しているからに過ぎない。
これは、お月さんも同じことである。
人工衛星が、時々降って来るのも、速度が落ちて来てしまったからに他ならない。
まあ、それでも、一応ライアンは無重力空間で事故にあってサバイバル劇を演じなければならないはめになったと考えてもいいだろう。
だからこそ、自分より質量の大きな宇宙船に取り付いていないと、どこへ飛んで行ってしまうか分からない恐怖にさらされ、となりのステーションにたどり着くのに大冒険をしなければならないことになるわけだ。
自分より下の軌道に居る物体に追いつこうと速力を上げると、反対に自分の軌道はますます上に上がって行ってしまうことになる。
スターウォーズの戦闘機のように、自由自在に軌道を変えられるような機体ではないからだ。
だから、周回軌道での行き来というのはとてつもなく繊細な作業を要求される。
あの状況で実際にライアンが助かる可能性は、まず「ゼロ」に等しいだろう。
でもまあ、そこは、映画のウソとして楽しんでいい範囲だ。
(ここから少々ネタバレ)
そういったことを考えると、あの映画は、最初から最後まで「重力」との闘いなのだ。
それが、一番端的に現れた場面が、地球に帰還したライアンが、着水した水中から岸辺の地面へと這い上がって来る場面だろう。
あれは、かつて生命が「水中という無重力状態」から、それまでより厳しい環境の、重力のある世界へと一歩を刻んだことに対するある種の「オマージュ」であり、重力のあることのありがたみを強く印象づける場面だろうと思う。
それを考えれば、邦題に付け加えられた「ゼロ」が、いかに原題の「Gravity」(重力、重力加速度、重大さ、沈着etc.)の持っている意味を理解していないものか分かると思うのだが。
※まあ、考えてみれば、あの映画はオマージュだらけの、一種のパスティーシュ映画ではあったけれど。
「宇宙からの脱出」、「バーバレラ」等々。おまけに、ミッションコントロールの声をやってるのがエド・ハリス(「アポロ13」と同じ役どころ)なんだからさ。