オリジナル版の「猿の惑星」5部作を再見。
5作目は、観ていなかったように思っていたのだが、記憶から飛んでいただけで、見直してみるとあちこち見覚えの有る場面が…。
(ネタバレあり。未見の方はご注意)
1「猿の惑星」
言わずと知れた、オリジナル版の原点。
光速で宇宙空間を飛行していたテイラー(チャールトン・ヘストン)たちの乗った宇宙船が、ある惑星に不時着してしまう。
その世界を支配していたのは、人間ではなく「猿(霊長類)」であった。
ジーラとコーネリアスというチンパンジーの科学者夫妻に助けられたテイラーは、禁断地帯へと向かうことになる。
猿たちの言う「禁断地帯」に隠された秘密とは?
2「続・猿の惑星」
行方不明になったテイラーの宇宙船の後を追って捜索に出たブレントの宇宙船は、やはり同じ惑星に落ちてしまう。
そこで、テイラーの連れ合いのノバに出会ったブレントは、テイラーを探すうちに、ミュータントとなった人類の生き残りに遭遇する。
やがて、ミュータントとゴリラの軍団の戦いが起こり…。
3「新・猿の惑星」
ある日、地球に1台の宇宙船が不時着する。
それに乗っていたのは、人間ではなく「チンパンジー」であった。
チンパンジーのコーネリアスとジーラたちは、テイラーの宇宙船に乗って、未来で滅亡する地球から脱出し、時間をさかのぼって過去の地球にやって来たのだった。
最初は、友好的だった人類だったが、やがて未来のことを知った彼らは、コーネリアスたちの抹殺を図るのだった。
その時、ジーラのお腹には、彼らの未来を握る赤ん坊が宿っていた。
4「猿の惑星・征服」
コーネリアスとジーラの忘れ形見マイロは、密かにサーカスで育てられ、青年になっていたのだが、ある日正体がばれてつかまってしまう。
何とか逃げ出した彼は、他の猿に紛れて、知事の召使いとして人間社会に潜り込む。
そこで、彼が選んだ名前が「シーザー」だった。
やがて、シーザーは猿を組織立て、ついに反旗を翻したのだった。
5「最後の猿の惑星」
それから20数年が経って、猿と人間は共同体を作って暮らしていた(猿の方が多少格上)。
ある時、シーザーは、自分の両親の記録が都市の地下に残っていると知って、今は核戦争で廃虚となっている都市へと出かけて行く。
そこには、核戦争で生き残った人類が隠れ住んでいたが、シーザーを見つけた彼らは、猿を殲滅しようとシーザーたちの村へと攻め寄せてくる。
一方、権力を握ろうとしたゴリラの将軍は、シーザーの息子のコーネリアスを…。
「猿の惑星」は、その発想と、見事な落ちによってSF映画の傑作としての名にふさわしい作品となっている。
猿と人間が対等に渡り合う芝居など、それまでの映画であれば、まさに「猿芝居」になってしまったろうが、見事(当時としては)なメーキャップと、押さえた演出によって「コメディー」ではなく、シリアスな史劇にまで昇華できている。
まあ、何故猿が英語を喋っているのをテイラーたちが不思議に思わないのだ?とか考え出したら物語が成立しなくなってしまうので、その辺は目をつぶっておくとして(原作では、確か、主人公が猿語を覚えたのだと思ったが)。
宇宙船の内部の作りなどは、同じ年の「2001年宇宙の旅」と比べてしまうと、やはりかなりチープではあるが…。
「続・猿の惑星」は、前作で残された禁断地帯の謎を解き明かして行くという形で、正式な続編として物語は進んでゆく。
禁断地帯には、核兵器を神とあがめて生活している「知性的な」人類が暮らしており、それを知ったゴリラの軍隊が攻め寄せてくる(チンパンジーの若者たちが戦争反対を訴えて座り込みをするなど、明らかにベトナム戦争の世相を反映している)。
最終的に、それが元で地球は最後を迎えることになるのだが、前作にしろ今作にしろ、身もふたもない悲劇で終幕を迎える映画というのは、アメリカ映画には珍しい展開だった。
「猿の惑星」に比べると、全体的には平凡な印象を受けるが、映像も音楽も前作を踏まえていて、2本でひとつの物語としてもそう悪くはない出来である。
「新・猿の惑星」で、明らかに物語は変質をはじめる。
コーネリアスとジーラ夫妻、それにもうひとりのチンパンジーは、テイラーたちの宇宙船に乗り込んで過去の地球にやって来るわけだが、どうやって宇宙船を湖から引き上げ、どうやって修理し(その知識はまったく持っていないはず)、どうやって旅立ったのかはまったく明かされていない。
この時点で、このシリーズは、SF〜寓話へとその本質をシフトして行くことになる。
なかで、大統領付の科学者が、彼らは一種のパラレルワールドからやってきたのだろうと解釈してみせるが、これは映画としての矛盾を説明するための言い訳のようにも聞こえる。
猿と人類の未来を知った人間たちは、コーネリアスとジーラを追いつめ、我が身の行く末を悟ったジーラは、生まれた息子を…。
映像や演出、音楽も、前2作とはかなり違ったものになっていて、明らかに、エンターテインメントを意識した作りになっている。
(ここまでの3作、監督はみな別の人間)
※この筋立てだと、テイラーたちの乗った光速宇宙船は、1970年代頃には地球を出発していないと、話がおかしなことになってくるのだが…。
「猿の惑星・征服」で、雰囲気は、また1、2のシリアスな雰囲気に戻っている。
地球上の犬と猫が宇宙から持ち込まれたウィルスによって死に絶えてしまった時代。
人間は、ペットとして霊長類を飼いはじめ、やがて訓練によって彼らを召使いとして働かせはじめていた。
主人公のシーザー…前作で、ジーラの判断で生き残った息子(この時点では、まだマイロという名前)…は、そんな都会でうっかり言葉を喋ってしまい、一度はつかまってしまうが、逆に人間社会に潜り込むことによって仲間を集めてゆく(そう、ここで物語の主体は、完全に人間から猿に移行している)。
そして、ある時反撃を開始した猿たちによってついに人類は…。
※野生の霊長類を、いくら訓練したところで、あそこまで自由に働かせられるようにはならないだろうし、彼らの筋力だったら、素手の人間など簡単に掴み殺せてしまうだろう…といったリアルな考察は「寓話」にはじゃまなだけである。
「最後の猿の惑星」は、おそらくそれから27年くらい経った時代。
ここでは、猿たちは一気に知的変異をとげ、全員が人間の言葉を喋り、馬や人間の武器を自由に使いこなしている。
一方、都市は核戦争で壊滅しているわけだが、何故核戦争になったかの説明はない(多分、人間対猿の闘いがきっかけなのかな?と想像するくらい)。
都市の地下に生き残った人間たちは、みな放射能症にかかっており、猿の村を攻めるのにも青息吐息といった感じで、この辺は妙にリアル(ただ、何故か女性はひとりしか出てこない)。
戦争は、猿側の勝利に終わるのだが、この物語は、それから600年後の昔語りとして締めくくられる。
その時代では、猿と人類は、仲良く暮らしていたのだった…。
(4、5は同じ監督)
※つまり、ここで3作目の「パラレルワールド」説が生かされてくるわけだ。
1、2と3、4、5は、やはり別の平行世界の物語として見た方がすっきりするかも知れない。
「猿の惑星・ジェネシス」は、あきらかに「猿の惑星・征服」を下敷きにしている。
「何故、いきなり猿の知能が上がったのか?」の解答編が「猿の惑星・ジェネシス」なのである。
これによって、無理やり「新・猿の惑星」で、チンパンジーを過去に送り込む必要はなくなったわけだ。
そういう意味で、やはり「猿の惑星・ジェネシス」は、正当な「猿の惑星」第3作と言えるだろう。